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前田記念腎研究所

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歴史

初代理事長:
前田貞亮の功績

当研究所は、厚生労働省(当時厚生省)『ネフローゼの診断基準』の策定など、腎臓病学において多大な功績を残した故・前田貞亮を初代理事長とし、1991年に設立されました。その前段階として、1980年に武蔵小杉クリニックを、1983年には新横浜クリニック(当時の名称は新横浜腎クリニック)を、1991年には茂原クリニックを開院しています。当研究所の設立後についても、1999年には大原クリニックを開院してきました。故・前田貞亮の持論であった“あらゆる事象に興味と探求心を持ち勉強する精神(向上心)”は、脈々と受け継がれ、全てのスタッフは、積極的に学会・研究会に参加し自己研鑽に努めています。

故・前田貞亮初代理事長

故 前田貞亮について

  • 経歴

    関東労災病院副院長、関東労災看護専門学校校長、昭和大学医学部客員教授
    前田記念腎研究所設立 理事長就任、前田記念武蔵小杉クリニック院長兼任

  • 役員歴

    日本透析医学会名誉会員、日本腎臓学会功労会員、日本人工臓器学会特別会員、日本職業・災害医学会功労会員、神奈川県透析施設連絡協議会会長、財団法人かながわ健康財団理事、第26回人工透析研究会大会会長(昭和56年)、第28回鉄バイオサイエンス学会大会長(平成16年)、有限責任中間法人バイオマーカー研究会代表理事、その他多数歴任

  • 専門

    腎炎、ネフローゼ・浮腫・腹水等の病態生理と治療、人工透析等の腎臓病学、降圧利尿薬等水電解質代謝、腎性貧血・鉄代謝の研究等

  • 業績

    現在の厚生労働省「ネフローゼの診断基準」は、故上田名誉教授(慈恵医大)・故東条名誉教授(筑波大学)・故波多野名誉教授(日本大学)らと共に決めたものである。
    腎疾患と遺伝子組み換えヒトエリスロポエチン(エポエチン・アルファ)治療全国研究会代表世話人

  • 執筆

    医学雑誌「臨牀透析」創刊号より10年間編集委員長
    著書に「ぽんぽこ談義」(前田記念腎研究所発行2000年)
    随筆に「野巫医のたわごと」(月刊雑誌 ファーマメディカ連載2000年~2015年)

前田記念腎研究所との関わり:
初代日本臨床工学技士会会長 川崎忠行

川崎 忠行

我が師、前田貞亮先生(以下、先生)との出会いは、小生が関東労災病院の透析室に入職した時の1973年で、その当時透析を行っていたのが内科部長であった先生でした。

1970年代の透析装置の操作は、先生や看護師さんが、メーカが装置の各部位に番号札を添付し、その順番で操作していましたが、小生は医学電子科卒であり、透析装置の担当として役割を分担することとなりました。これがチーム医療の始まりと考えます。

透析器がキール型やコルフ型から現在のホローファイバー型へと、透析液が酢酸Naから重炭酸Naへと移行しましたが、その技術開発や装置の改良、さらには抗凝固法における新たな凝固測定法の開発、アナログの装置からデジタルの装置へ、更にフルコンピュータ制御装置の開発、世界で初めてのコンピュータ中央管理システムの開発など、現在の透析技術の基礎を先生と共に作り上げてきました。

この流れの中で、透析患者さんの予後も格段に向上し、透析の目標が救命から社会復帰となり、関東労災病院での昼間透析では対応が困難なことから、夜間透析のできるサテライト施設の開設を提案し、1980年に武蔵小杉クリニックが誕生することとなりました。

一方、入職してから、病院では、医師、看護師、診療放射線技師、臨床検査技師など国家資格を持って多くの方々が働いていますが、小生には医学電子科卒業だけであり、無資格で医療に従事していることに気づきました。これを先生に相談したところ、虎の門病院や東京女子医大病院、北里大学病院などの技術員を集めて、スキルアップのための組織を作ること、そして将来は新たな職種の法制度化を目指すべきとのお話を頂きました。

1976年に関東地域で始まった透析技術員の組織化は全国に波及し、先生方のご支援も頂き1987年に悲願であった”臨床工学技士法”が国会で可決しました。

その後1990年に日本臨床工学技士会を発足させ、以後28年間理事、会長を務めさせて頂き、その間、臨床工学技士業務の拡大や公益社団法人化など達成させることができました。

そして現在は、世界で唯一の医療機器の医療資格である臨床工学技士制度の海外普及を行う一般財団法人臨床工学国際推進財団(https://cegpf.or.jp/)を立ち上げて活動しています。

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